2024年9月14日土曜日

北本呉服店駐車場



この建物は旧愛媛無尽株式会社八幡浜支店大洲出張所で、現在は一階部分が駐車場になっている。ちなみに愛媛無尽株式会社は現在の愛媛銀行の前身。

愛媛県大洲市大洲  大正末期~昭和初期?

2024年9月7日土曜日

赤レンガ通り

現在は八幡浜市に有するが、明治期には鉄鉱山や海運などで栄え、県内初の銀行や、四国初の紡績会社や電灯が点灯されるなどの歴史をもつ保内町。そんな保内町川之石地区を少し歩けば、今も日常の風景の中に赤レンガの外壁があったりして、どこか懐かしい気持ちにさせてくれる。赤レンガは西洋文化の象徴的な建材として取り入れられ、関東大震災までに全国的に広まった。

愛媛県八幡浜市保内町川之石 明治・大正期

2024年8月31日土曜日

安楽湯

以前紹介した永野医院の向かいにあったのが安楽湯。丸窓が特徴的な銭湯だったが、こちらも取り壊されて今はない。ちなみに近くには小松藩に招かれて藩士・領民の教育に尽くした近藤篤山の私邸の一部が近藤篤山旧邸として残り、伊予聖人の生活を今に伝えている。

愛媛県西条市小松町新屋敷 昭和初期?

2024年8月24日土曜日

鶏小島灯台

急流で有名な船折瀬戸に位置し、戦国時代には村上海賊の出城があったとされる。無人島だが終戦間際に初点灯した白灯台が現存し、瀬戸内海の西の守りとして海上交通の案内役を果たしている。ちなみに元旦にこの島に住む金鶏の声を聞くと幸せになれるという伝説が残る神秘の島でもある。

愛媛県今治市伯方町有津 昭和20(1945)年

2024年8月17日土曜日

臥龍醸造


製糸工場「旧程野製糸場繭倉庫」から染物工場や製材所事務所を経て、取り壊す予定だった赤煉瓦倉庫をリノベーションし、現在はクラフトビール醸造所「臥龍醸造」になっている。外壁の赤煉瓦や店内の壁、二階にある大きな梁などは当時のものをそのまま残している。庭には明治21年の大洲城解体の時に譲り受けたとされる銀杏木とメタセコイヤの大木がある。

愛媛県大洲市大洲 明治39(1906)年

2024年8月10日土曜日

遠登志橋



別子銅山から出る排水路橋及び人道橋として架設された。長さ48m、スパン37m、明治時代の鋼アーチ橋で当時の姿を残しているのはこの橋だけといわれている。戦後は新居浜市に寄付されたが、老朽化により平成5年にアーチ橋の補強工事を行うとともに、その上にワイヤーロープ吊り橋が架けられた。2005年に国の登録有形文化財に、2007年に別子銅山関連遺産として近代化産業遺産に選定された。

愛媛県新居浜市立川町 明治38(1905)年

2024年8月3日土曜日

今治城の橋




今治城本丸の西の角にあるのが山里櫓で、山里門と呼ばれる裏門もあり、城外へ出るにはそこから石段を下り、高麗門をくぐって狭い土橋を渡る。この橋は本来は木の橋で、敵が攻めてきたときに落とせるようになっていたそうだ。ここに大正時代の橋が架かっているのを知っているだろうか。橋名は美保喜橋?寿保喜橋?

愛媛県今治市通町 大正4(1915)年

2024年7月27日土曜日

伊予鉄道 道後温泉駅舎

道後温泉駅は明治28(1895)年に「道後」停車場として開業した。明治44(1911)年に建てられた2代目駅舎が老朽化したため、建築部材の一部を再利用し新築復元された。明治時代の洋風建築の外観が美しく、夜間はライトアップされる。

愛媛県松山市道後町 昭和61(1986)年復元

2024年7月20日土曜日

地細工紺屋 若松

文政5年(1822年)創業。現在は5代目が江戸時代末期に建てられた工房で、約200年にわたる伝統の技術を受け継ぎ、旗や幕・織・五月織・印染などの手染めの仕事を続けている。作品は昔ながらの製法で機械を使用せず、手製の道具を使った職人の手作業で行われる。もともとこの辺りは漁業や商業で栄えていて、店の前がメインストリートで建物の裏側には海が迫っていたという。見学も可能。

愛媛県八幡浜市浜之町 江戸時代末期

2024年7月13日土曜日

武内邸



以前は会社から近かったので昼休みの散歩のときよく目にしていた。瀟洒な洋館でずっと気になっていたが、平成26年8月に取り壊されたらしい。詳しいことは不明。なおこの近くに今治城の外堀の石垣の一部が現存する。意外と知らない人が多い遺構だがぜひ後世に残してほしい。

愛媛県今治市東門町 大正時代?

2024年7月6日土曜日

島田薬館カフェ随

肱川橋のたもとにある1900年創業の島田商店(島田屋薬品)をリノベーション、現在はカフェとして営業している。入口のガラス戸や柱や建具などはそのまま残され、昭和レトロな雰囲気の漂う店内ではコーヒーや手作りケーキ、ランチが提供される。2階には有料で利用できる図書室や会議室もある。

愛媛県大洲市大洲 昭和3(1928)年

2024年6月29日土曜日

旧宇和町小学校講堂


宇和米博物館はかつて坪ヶ谷にあった宇和町小学校の講堂および第1校舎、第2校舎の三棟を移築保存し活用したものだ。雑巾がけレースで有名な第1校舎の一段上にあるのが講堂と第2校舎で、昭和の新校舎建築にともなって同所に移築された。

愛媛県西予市宇和町卯之町 大正4(1915)年

2024年6月22日土曜日

旧濱田医院


昔から医院が多かった三津浜住吉地区に建てられ、昭和20年代からは産婦人科として47年まで開業していた。閉院後は廃墟のような惨状だったが、時代を先取りした建物をこのまま朽ち果てさせるのは惜しいと、地元住民の協力を得ながら約1年半かけてリノベーション、当時の疑洋風建築そのままの姿に蘇らせた。現在は三津浜の歴史や資料の展示室に加え、事務所や店舗などが入るテナントとして利用されている。※写真はリノベーション前

愛媛県松山市三津浜住吉 大正12(1923)年

2024年6月15日土曜日

丸善石油備蓄基地

大三島の沿岸部が軍用地として接収された時に軍用貯蔵のために作られ、戦中まで使われていた石油備蓄タンク。昭和17年に旧陸軍燃料廠の貯油タンクの第一期工事として着工、18年より軍用貯蔵を開始した。19年には燃料貯油タンクが7基完成した。二期工事の未完成のまま終戦となったが、合計12基が完成していた。戦後、旧丸善石油に払い下げられ運用されていたが、2013年に取り壊された。

愛媛県今治市上浦町井口 昭和17(1942)年

2024年6月8日土曜日

共存橋・共栄橋の橋柱


昭和通りに架かっていた二本の橋柱が、自彊舎跡地に移設保存されている。昭和通りが作られた際に、住友の各会社と地域社会が共に発展することを願って、別子銅山の最高責任者・鷲尾勘解治により名付けられた。橋の改修で初代の橋柱はそれぞれ広瀬公園(写真)に保存されていたが、平成27年の自彊舎跡地の整備に伴い菊本町に移設された。

愛媛県新居浜市菊本町 昭和6(1931)年

2024年6月1日土曜日

興業舎第一工場跡


明治時代に綿ネルや広幅織物を主力とし、四国屈指の綿織物会社に成長した興業舎。この場所には第一工場があったが、昭和20年8月の今治空襲ではこの近くを標的にされ、被爆したものの奇跡的に建屋の一枚の壁だけが残った。現在は駐車場になっている。

愛媛県今治市通町 明治時代後期

2024年5月25日土曜日

豊予要塞弾磨き鍛造所


佐田岬駐車場近くにあった廃屋は、砲弾の維持管理(弾磨き)を行う場所で、ここで雇われた民間人がビール瓶くらいの弾を磨いていたそうだ。戦後は払い下げられて民家となり、その後は写真のような廃屋状態になっていた。日本で唯一残された木造の弾磨き鍛造所という戦争遺跡だったが、現在は取り壊されているらしい。

愛媛県西宇和郡伊方町正野 大正15(1926)年

2024年5月18日土曜日

伊予市の近代建築



つたや旅館 昭和初期の豪商の邸宅を改装した和洋折衷のレトロな旅館

山惣商店は文久元年(1861年)に旅籠として建築された

宮内邸は江戸初期に郡中灘町を拓いた宮内小三郎の家

 

2024年5月11日土曜日

小松橋



令和8年に100歳を迎える小松橋は、鉄筋コンクリート造りの桁橋で橋長28.6m、幅員5m。クラシック様式の非常にモダンなデザインで、桁と桁を結ぶ橋桁は緩やかなアーチを描くなど意匠的な工夫が随所にみられる。また親柱の上には高々と明かりが取り付けられ、城下町の西端に位置する入口門であったことが伺える。

愛媛県西条市小松町新屋敷 大正15(1926)年

2024年5月4日土曜日

岩城郷土館(旧三浦邸)

江戸時代に重要な港としての役割を果たしていた岩城島には、松山藩の島本陣とされた「三浦邸」が置かれていた。三浦邸は塩田開発や回船業で繁盛した豪商で、藩の公的な接待の場所としてその邸宅が使われた。部屋の間取りや庭園などに島本陣としての風格をうかがわせる貴重な建物だ。大正・昭和期には若山牧水・吉井勇が訪れ歌を残している。昭和52年に御成門や主賓の間、畳敷きの便所などが修復され郷土館として開館した。

愛媛県越智郡上島町岩城 江戸時代

2024年4月27日土曜日

石手川橋梁


伊予鉄道横河原線にあり、開業時の軽便鉄道から普通軌道への改軌、電化、駅の設置などの変更を経ながら原位置にある鉄道用トラスとしては現役最古であるとして、2012年に土木学会選奨土木遺産に認定された。橋長35.8メートルのイギリス型ポニー・プラット・トラスで、橋台はイギリス積みの煉瓦製2基、ワンスパンで川を渡している。昭和6年に軌道幅762ミリから1067ミリの普通サイズに改軌。昭和47年に橋上に石手川公園駅が設置された。

愛媛県松山市立花 明治25(1892)年

2024年4月20日土曜日

至徳堂

中江藤樹は日本陽明学の始祖で、後年「近江聖人」と称えられた江戸初期の儒学者。近江国(滋賀県)に生まれ、9歳のころ伊予国(愛媛県)に来て、成長して大洲藩家臣となり、独学で儒学を究め、徐々に好学の藩政を醸成する。その藤樹の遺徳を偲び屋敷跡があったとされる大洲高等学校内に、古い和風建築で落ち着いたたたずまいの旧邸が復元され、書院「至徳堂」と名付けられた。愛媛県指定史跡。

愛媛県大洲市大洲 昭和14(1939)年

2024年4月13日土曜日

今治市桜井地区

燧灘に面し志島ヶ原を有する今治市桜井地区。菅原道真がこの地に辿り着いたことで、桜井に縁ある「志島」「綱敷」「衣干」の呼び名が生まれた歴史の舞台だ。かつての天領地で御用米を運ぶ港として栄え、廻船業の拠点地となった。廻船業者が各地を巡って漆器を販売するようになると「椀船行商」が始まり、やがて桜井漆器の産地として発展した。そして現在は海老や鯛、蟹など瀬戸内海の豊かな地魚が獲れる港町として、かつての美しい風情を残している。そんな桜井地区に残る懐かしい近代建築を集めた。

旧銭湯



天神橋 大正15(1926)年

個人宅

2024年4月6日土曜日

山田社宅群




星越交番

近年の社宅跡

昭和初期に住友別子鉱山の支配人だった鷲尾勘解治が、鉱山依存からの脱却を目指して新居浜沿岸部の工業地帯建設を主導、それまで別子の山中にあった社宅群を徐々に平野部に建設され、すでにあった新居浜選鉱場の横に広がっていた水田を埋め立てて開発されたのが山田社宅だった。生け垣で区切られた庭付き1戸建て住宅で、碁盤の目状に約250戸の住宅が規則正しく並ぶ光景を見たときは、昭和の時代にタイムスリップしたように感じた。さらに駅前には交番や浴場などが建てられるなど、かつて星越地区には数多くの別子銅山の産業遺産があった。現在は別子事業所長宅、西洋人社宅などを残して社宅はすべて取り壊された。星越駅舎は改装され現存するが、その背後の新居浜選鉱場も撤去された。道路を隔ててあった当時の交番もすでにない。

愛媛県新居浜市星越町 昭和4(1929)年