波止浜港のそば、現在は新来島波止浜どっくになっているところにあった。建物は木造平屋の寄棟造りで、当時としては異彩を放つ近代的な洋風建築だった。昭和34年に製塩業が廃止され、その後は造船所の倉庫などとして利用されていた。建物の背後に林立する造船所のクレーン群を見ると、この建物だけが時代に取り残されたような感覚にとらわれたものだった。画像は2007年3月に撮影。
愛媛県今治市波止浜 明治41(1908)年
愛媛県今治市波止浜 明治41(1908)年
愛媛県上浮穴郡久万高原町上黒岩 大正11(1922)年
四国霊場第61番札所の香園寺近くの畑に、立派な門柱一対が放置されています。この門柱は香園寺36代住職の山岡瑞圓師が設立した三密学園の門柱で、山岡氏は戦前に子安大師講をひろめるとともに三密学園や子安中学(小松高校の前身)を創立するなど、教育の普及に尽力された香園寺中興の祖だということです。
愛媛県西条市小松町南川 大正15(1926)年
大正時代に建築された旧桑折醫院が、隣接するこおり小児科の乳幼児デイケア施設として平成13年から利用されています。改装にあたっては大正時代の外観の雰囲気をできるだけ残すよう配慮されています。
愛媛県宇和島市中央町 大正6(1917)年
愛媛県伊予市灘町 明治44(1911)年
愛媛県新居浜市立川町 大正4(1915)年
松山市郊外の港町・三津浜地区にある四国で最も早く明治21年に開業した駅のひとつ。旧駅舎(2代目)は昭和6年の高浜線電化と同時期に建てられた。風情ある木造駅舎だったが、駅前広場の拡張整備に伴い解体された。現在の3代目駅舎は2代目のデザインを継承して平成21年にできた。ちなみに明治28年に松山に赴任してきた夏目漱石が三津浜港から四国に上陸し、最初に汽車へ乗ったのがこの三津駅だったそうだ。
愛媛県松山市三杉町 昭和6(1931)年
初代(砂場公園) |
初代(サンライズ糸山) |
2代目(今治港) |
腕木式としては国内で最後まで現役を務め、103年にわたり潮の流れと進路を船に伝えてきた。高さ約5m、鉄のアームの両端に取り付けられた丸い赤と四角い黒の表示板が上下に動いて潮流の向きを知らせた。老朽化のため1990年に2代目と交代したが、電光掲示板などの設置が進んだため2011年度末で廃止、撤去された。初代の信号機は撤去後に砂場公園に移設されていたが現在はサンライズ糸山で、2代目は今治港で見ることができる。
大小の島が点在する来島海峡は、潮流が早い国内有数の通航の難所として知られる。潮の流れに応じて原則の右側通航から左側に変える、世界でも珍しい規則もある。隣接するレンガ造りの吏員退息所も当時のものだったが、2代目信号機とともに撤去され、現在は灯台が残るのみとなった。
愛媛県今治市吉海町 明治42(1909)年
愛媛県西条市丹原町志川 昭和6(1931)年
愛媛県大洲市大洲 大正14(1925)年
愛媛県東温市牛渕 大正~昭和初期
愛媛県松山市北持田町 昭和12(1937)年
愛媛県新居浜市西町 昭和6(1931)年
愛媛県八幡浜市保内町川之石 大正時代
愛媛県今治市吉海町本庄 天保6(1835)年
愛媛県大洲市河辺町北平 明治19(1886)年
愛媛県西予市宇和町卯之町 昭和3(1928)年
愛媛県宇和島市津島町岩松 大正10(1921)年頃
歩道や壁に陶板を敷き詰めた約500mの陶板の道。その散策路の途中にある陶祖ケ丘には、江戸時代に大洲藩侯の命によって、砥部産の砥石屑を用い焼成を始め、三年の歳月を経て白磁の焼成に成功した陶祖・杉野丈助の功績を讃えた顕彰碑がある。また時代ごとの陶片を埋め込んだ陶壁碑もあり、丘からは砥部町の街並みが一望できた。
愛媛県伊予郡砥部町大南 昭和17(1942)年
奉安殿(ほうあんでん)とは、戦前の日本において天皇と皇后の写真(御真影)と教育勅語を納めていた建物で、戦前の学校に必ず設置されていた。戦後はGHQにより廃止され全国から姿を消したが、西条市にはその奉安殿が5つ残っている。今回は旧東予市の2つの奉安殿を紹介したい。
喜多台にある藤森荒魂神社の神明造の本殿は、壬生川小学校にあった奉安殿を取り壊す際に部落が譲り受けて移築したもの。藤森荒魂神社は毎年4月下旬から5月上旬頃に、藤の花が見頃を迎える名所だ。
もうひとつの奉安殿は北条の大気味神社の境内にある。戦後放置されていたものを譲り受け、現在は多賀乃宮として使用されている。あの饅頭でおなじみの「きざえもん狸」の話でも有名な神社でもある。
愛媛県西条市(旧東予市) 昭和10(1935)年代
愛媛県松山市大街道3丁目 昭和3(1928)年
愛媛県新居浜市吉岡町 大正6(1917)年
愛媛県西条市丹原町丹原 大正7(1918)年
樋口医院は宇和島市立歴史資料館(旧宇和島警察署)を模した建物だった。現在は正光会広小路診療所となり、正面玄関部にかつての疑洋風建築のイメージを残したガラス張りのビルに建て替えられている。レンガ造りの門は昔のままで残されている。
愛媛県宇和島市堀端町 明治40(1907)年