太鼓水車とも呼ばれ万年陶石・上尾陶石を砕き、出来上がった陶土を素材として陶工は器を焼いたといわれる。明治以降、砥部川上流の水車は24基にも及び「水車銀座」と呼ばれたが、昭和に入ると共同製土場が設けられ、その数は減少し、川登地区・砥部川沿いに唯一残っていた明治中期に作られた1基も2018年に老朽化のため取り壊された。
愛媛県伊予郡砥部町川登 明治中期
愛媛県八幡浜市保内町川之石 明治34(1901)年
愛媛県今治市古国分 明治35(1902)年
道の駅マイントピア別子本館がある端出場は、別子銅山の採鉱本部が東平地区から移転された昭和5年から閉坑の昭和48年まで使用された地区で、園内には採鉱本部時代からの産業遺産が数多く遺っています。駐車場山側にある巨大なコンクリートの構造物が鉱石を貯める施設(貯鉱庫)です。貯鉱庫の上には第四通洞からの軌道敷きが延び、鉱石運搬車が貯鉱庫の上から鉱石を落として鉱石を貯める仕組みになっていました。
愛媛県新居浜市立川町 大正8(1917)年
愛媛県喜多郡内子町内子 昭和初期
愛媛県八幡浜市浜之町 昭和初期
愛媛県新居浜市惣開町 明治34(1901)年
愛媛県西予市野村町 昭和5(1930)年
愛媛県南宇和郡愛南町御荘平城 昭和5(1930)年
愛媛県宇和島市京町 昭和6(1931)年
一見するとコンクリート造の建物ですが、実際は伝統的な和風住宅で、道路に面した外壁二面のみ洋風意匠を施した「看板建築」という手法で建てられました。トロール漁で栄える昭和初期の向灘において住民の請願によって開設されました。昭和61年まで郵便局として使用され、現在は個人宅になっているようです。愛媛県八幡浜市向灘 昭和7(1932)年
愛媛県喜多郡内子町内子 大正5(1916)年
愛媛県松山市南吉田町 昭和18(1943)~昭和19(1944)年
愛媛県西条市小松町 大正15(1926)年