2024年6月29日土曜日

旧宇和町小学校講堂


宇和米博物館はかつて坪ヶ谷にあった宇和町小学校の講堂および第1校舎、第2校舎の三棟を移築保存し活用したものだ。雑巾がけレースで有名な第1校舎の一段上にあるのが講堂と第2校舎で、昭和の新校舎建築にともなって同所に移築された。

愛媛県西予市宇和町卯之町 大正4(1915)年

2024年6月22日土曜日

旧濱田医院


昔から医院が多かった三津浜住吉地区に建てられ、昭和20年代からは産婦人科として47年まで開業していた。閉院後は廃墟のような惨状だったが、時代を先取りした建物をこのまま朽ち果てさせるのは惜しいと、地元住民の協力を得ながら約1年半かけてリノベーション、当時の疑洋風建築そのままの姿に蘇らせた。現在は三津浜の歴史や資料の展示室に加え、事務所や店舗などが入るテナントとして利用されている。※写真はリノベーション前

愛媛県松山市三津浜住吉 大正12(1923)年

2024年6月15日土曜日

丸善石油備蓄基地

大三島の沿岸部が軍用地として接収された時に軍用貯蔵のために作られ、戦中まで使われていた石油備蓄タンク。昭和17年に旧陸軍燃料廠の貯油タンクの第一期工事として着工、18年より軍用貯蔵を開始した。19年には燃料貯油タンクが7基完成した。二期工事の未完成のまま終戦となったが、合計12基が完成していた。戦後、旧丸善石油に払い下げられ運用されていたが、2013年に取り壊された。

愛媛県今治市上浦町井口 昭和17(1942)年

2024年6月8日土曜日

共存橋・共栄橋の橋柱


昭和通りに架かっていた二本の橋柱が、自彊舎跡地に移設保存されている。昭和通りが作られた際に、住友の各会社と地域社会が共に発展することを願って、別子銅山の最高責任者・鷲尾勘解治により名付けられた。橋の改修で初代の橋柱はそれぞれ広瀬公園(写真)に保存されていたが、平成27年の自彊舎跡地の整備に伴い菊本町に移設された。

愛媛県新居浜市菊本町 昭和6(1931)年

2024年6月1日土曜日

興業舎第一工場跡


明治時代に綿ネルや広幅織物を主力とし、四国屈指の綿織物会社に成長した興業舎。この場所には第一工場があったが、昭和20年8月の今治空襲ではこの近くを標的にされ、被爆したものの奇跡的に建屋の一枚の壁だけが残った。現在は駐車場になっている。

愛媛県今治市通町 明治時代後期